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2012年11月

2012年11月30日 (金)

創立108周年記念式典が行われました

本日は創立108周年の記念式典が行われました。理事長先生の式辞に続き、優秀生徒の表彰がありました。その後、同窓会会長の祝辞があり、中高それぞれの生徒会長よりお祝いの言葉が述べられました。最後に校歌斉唱と野球部によるエールが行われました。
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2012年11月 9日 (金)

11月8日(木)被災者に思いを寄せる日

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11月11日は日曜日のため、8日(木)を「被災者に思いを寄せる日」としました。登校してくる生徒たちに、「おはようございます」という元気なあいさつと、「震災から20か月、被災された方に思いを寄せましょう」という呼びかけを行いました。

この日に発行した生徒会通信は、今年の夏に被災地を訪問した際に交流した方から送られてきた手紙を紹介しました。ご家族を亡くされた悲しみは決して消えないこと、そんな中、遠く広島から自分たちのことを思ってくれる中高生と出会えたことのありがたさを伝える内容でした。「いつまでも被災された方と共にあり続ける」ことの大切さをあらためて強く思いました。

2012年11月 8日 (木)

[高校] 第49回全国高校生作文コンテスト 文部科学大臣奨励賞受賞

第49回全国高校生作文コンテスト(大東文化大学主催)において、5年(高2)勝村岳世君の作品が「文部科学大臣奨励賞」に選ばれました。
このコンクールは「日本のエネルギー」をテーマに1600字程度の作文が課せられたもので、全国から寄せられた2022編の中で最優秀作品に選ばれました。
この結果・作品は大東文化大学のホームページにも掲載されています。

 

「耳を澄ます、見えない『弱者』の声に」

 政府は中長期のエネルギー政策の策定に向け、国民に3択のアンケートを行った。
 2030年時点の原発依存度「0%」「15%」「20~25%」―私は選ぶことができない。
 脱原発を訴えるデモ行進が、この夏、全国で行われている。7月下旬に首相官邸周辺で行われたデモには20万人の人々が集まった。―私は参加できない。
 なぜなら、原発問題は社会全体の問題だと思うからである。社会はつながっている。原発は原発だけの問題ではないのである。
 私は、一昨年までの10年間を、瀬戸内海に浮かぶ小さな島、大崎上島で過ごした。人口約8000人、産業は柑橘栽培と造船業。近年は少子高齢化で人口は減少の一途をたどり、介護者不足が深刻な問題となっている、そんな島だ。さらに本土からの架橋はなく、上陸には必ず船を要するといういわゆる離島だ。
 そんな大崎上島ではあるが、今もなお独立した「町」として存在している。なぜそうあれるかと言えば、紛れもなくそこに発電所があるからである。
 町の財政はかなり小規模な自治体ながら潤っていたのは子ども心にも理解できた。町立の小中学校にはすべてエアコンが完備され、町内に図書館や大型の講堂を有するなど、公共施設も大変充実していたからだ。また医療に関しても、町が患者を島外に搬送するだけの船を所有するなど安心して暮らせる体制が整っていた。そういった離島らしからぬ潤沢な公共サービスの背景には発電所という裏づけがあったのである。今思えば、町内にはかなり多くのあった土木業者の存在も、公共事業の多さが影響していたのだと推測がつく。
 島の多くの生活が、発電所によってまかなわれているということは、裏を返せば発電所がなくなれば、たちまち町の財政は成り立たなくなることを意味している。その結果当然島を追われることになるのは必至である。
 少し前のことになるが、福井県が大飯原発の再稼動を容認した件に関して議論があったが、同じような背景が福井県にはあるのだと思う。原発事故の危険に晒されたいと願う人なんて絶対にいないはずだからだ。
 ある人が、福島での原発事故の被災者を「弱者」と比喩し、寄り添いたいと言っているのを聞いた。しかしその時私は、私の住んでいたあの島の人々の顔を痛切に思い出したのである。彼らも、福島の人々も、その他発電所を抱える全国の方々も、ほんとうは「弱者」なのではないかと思い当たったのだ。光が当たりにくい彼らに対しても被災者同様、置かれている立場を汲む必要があると考える。
 「原発をなくすためには、どうすればいいですか?」「太陽光発電で!」―原発の問題はそんな単純ではない。繰り返して言う、社会はつながっているのだ。
 だから私は政府の実施したアンケートには答えられない。デモも行えない。このアンケートは現在取りまとめ中だと言うが、8月17日のメディアにはその大半が「0%案支持」だったと取り上げられていた。どうやら「弱者」の声は届いていない。
 現在の原子力発電関連の問題における最大の問題は、田舎に電気を作らせ、都会で浪費するというシステムが出来上がってしまっていることだと思う。そして田舎は生きるためにその選択を受け入れるしかないという現実。
 私は今答えを出すのは早すぎると思う。しかし必ず解決しなければならない問題であるとも思う。私たち国民1人1人が考え始めること、それがスタートだ。見えない「弱者」の声に耳を傾けることができるようになった日、これこそ原発問題、社会問題が解決を見る日ではないかと思うのだ。
 私は昨夏、震災の影響を色濃く受けた宮城を訪れた。「今は今しかない」―この思いが私を駆り立てた動機である。そこで報道だけでは知り得ないことを多く目にすることができた。私はいずれこの答えを出すのはもしかしたら私たち、若い世代かもしれないとも考えている。将来的に原発という社会問題を打破するためにいつでもアクションを起こせる、そんな自分でありたい。

2012年11月 2日 (金)

[高校] 第12回立命館論文大賞「論文」部門大賞受賞

第12回立命館論文大賞(立命館大学主催)において、5年(高2)村上誠一郎君が「論文」部門で大賞を受賞する通知をいただきました。 立命館論文大賞は論文部門(6000字程度)と小論文部門(3000字程度)に分かれており、今回は「水と人類」というテーマが課された論文部門での受賞となりました。

この結果は立命館論文大賞のホームページに掲載されるとともに、11月18日(日)、京都府の立命館大学において表彰式が予定されています。

※2012年11月19日追記…表彰式に出席いたしました。

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村上君は、環境科学研究部の副部長としてこれまで5年間にわたって 芦田川の環境保全に努めてきました。論文では芦田川を活動拠点に学んだ5年間の歩みを中心に、水環境の問題に対する考察をおこなうとともに、国際理解FWでの体験、さらに未来への展望を語っています。原稿用紙15枚の大作の抜粋を以下にご紹介いたします。

川の水環境の保全・再生を目指して  ~タナゴが教えてくれた未来~(抜粋) 盈進高等学校2年 村上誠一郎

<序章 はじめに>

私はこれまでの17年間、瀬戸内海に浮かぶ因島という島で育ってきた。周囲を海に囲まれ森や林が自然の姿のまま生きづいている島だ。春は祖父母と一緒に山でタケノコを掘ったし、夏から秋にかけてはセミ取りに夢中になった。冬になれば木にみかんを刺してそれをついばみに来る鳥を眺める毎日――それらは私の暮らしの歳時記であった。

しかしそんな島育ちの私に5年前転機が訪れた。高速バスで約1時間かかる島外の中学校へ進学することになったのだ。そしてそこで水質汚濁問題を抱えた「芦田川」に出会うことになる。自然環境、特に水環境の保全・再生ために私たちができることは何か、「芦田川」を活動拠点として学んだ5年間の歩みについて述べたい。

<第1章 身近な川を守る>
第1節 芦田川とは
第2節 芦田川水質汚濁の原因
第3節 私たちの活動
第4節 タナゴの保護活動を通して

<第2章 日本の川に目を向ける>
第1節 日本の川の治水の歴史
第2節 日本の水環境を考える
第3節 身近な水問題は日本の環境問題へ

<第3章 世界の川に目を向ける>
第1節 世界の中の日本
第2節 マレーシアで出会った川

<終章 おわりに>

 この5年間は私にとって、芦田川という地域の川を拠点に水環境の保全には何が必要なのかを考え行動する日々だった。因島から福山市に出て知った川の問題、日本各地の中高生と交流して学んだ川の問題、そして実際に世界に出て目にした川の問題。これらは再び私の目を私たちの川、芦田川に向けさせてくれた。私個人の結論としては、他の生き物への影響が大きく人間の生活だけを守るためだけに作られたような川にはやはり賛成できない。また短絡的な考えで川の形を変えたことで、人々の川への関心を薄くしてしまったことに大きな問題があると思う。その結果川へゴミなどを捨てる人が現れ始めたからだ。こうなるともはや割れ窓の法則である。川の形を変えた結果、川の環境が悪化する事となったのだ。しかしこれは川の氾濫の被害を受けることのない、島の人間だからそのようなことが言えるのかもしれない。川のそばに住む人にしてみれば、氾濫のたびに被害を受けたのでは生活が成り立たないがゆえに堤防を高くし、川を三面コンクリート張りにしてもらったはずだ。だから一概に三面コンクリート張りの川は良くないとは言えない。自然護岸にも長所、短所がある。コンクリート張りの川にも長所、短所がある。だからこそ歴史の先人たちは様々な知恵を使って川に無理強いをさせずに川を治めてきた。富山和子氏の書いた『川は生きている』という本に次のような言葉がある。「(中略)こうした川のうったえを、わたしたちは、しずかにきいてあげなければなりません。そして、川とわたしたちの生活のむすびつきを、もういちどじっくりと、考えてみようではありませんか。」

 私たち高校生にできることは非常に微力だ。川を工事したり、画期的な方法を生み出し実行したりすることなどは到底できない。しかし、私たちにしかできないこともあるのではないだろうか。過去の歴史に縛られない柔軟な発想で、世界の仲間と打ち解ける心。そして私たちの前にはまだ大きな可能性を孕んだ「未来」が待ち受けているという事実。私は芦田川のタナゴたちの「小さないのち」の声に耳を澄ますことで、水問題解決の扉を開くことができた。そして将来は理科教師として「未来」の子どもたちに「小さないのち」の声を聞かせてやることで、この扉の続きに道をつくっていくことをライフワークにしたいと夢見ている。

 

[高校] 第14回後藤新平・新渡戸稲造記念 拓殖大学高校生・留学生作文コンクール 入選

第14回後藤新平・新渡戸稲造記念 拓殖大学高校生・留学生作文コンクール(拓殖大学主催)において、5年(高2)佐道今人君、松井千典さんの入選が決まりました。このコンクールは「私が体験した国際協力・国際理解」もしくは「私が今できる社会貢献」という2テーマから1テーマを選び、2000字で論述するもので、全国1284件の応募の中から選ばれました。2人とも4年(高1)時の国際理解フィールドワークにおけるマレーシアでの体験をもとに書いた作品が「私が体験した国際協力・国際理解」部門での受賞となりました。 この結果は拓殖大学のホームページにも掲載されています。

「マレーシアの教育制度から学んだこと」盈進高等学校2年 佐道 今人

日本では現在、小学校・中学校・高校・大学という六・三・三・四の四段階に分かれた教育制度が施行されている。また、時間割も六・七時間で1コマの授業が行われている。私はこのシステムを当たり前のものと享受し、世界で一般的な制度であるものと思っていた。

 しかし、今回学校の国際理解学習プログラムで訪れたマレーシアではそうではなかった。

 マレーシアでは午前・午後で別々に授業を行う二部制を導入され、非常に興味深い教育活動が行われている。日本でも職業を持つ人などのために高校や大学で「夜間クラス」が存在するケースはあるが、それは特例的なものである。ではなぜマレーシアではこのような制度が施行されているのだろうか。

 この制度について初めて耳にしたとき、私にある疑問が湧きあがった。二部制にしてしまうと、それぞれの学習時間は必然と短くなり、国民全体の教育水準が下がってしまうのではないかということである。そして子どもたちが残された半日をどのように過ごしているのだろうかということも気になった。

 しかし現地で直接聞いてみたところ二部制の理由はその義務教育のシステムにあるのだということが分かった。マレーシアでは初等教育6年、中等教育5年、大学予備教育2年が義務教育となっており、中等教育まで無料というシステムになっている。これは日本よりもかなり教育熱心だと言えよう。しかし都市部では生徒の数が教室収容数を越えているため学年ごとに登校する時間帯を変える二部制が敷かれているのだという。

 また、いくら無償の義務教育期間が長くても、マレーシアには少なからず貧富の差が存在する。貧しい家庭の子どもたちは国からの援助をもらい、勉学に励んでいる。その援助の中には学費はもちろんのこと制服代、教科書代、その上食事代も含まれている。どのような家庭に生まれても勉強することができるという国の姿勢は見習うべきものであると感じた。

 それではもう一つの疑問、残された時間を生徒たちはどのように使っているのかということである。もちろん貧しい家庭の子は家の手伝いや生活のためにそれぞれができる役割を担っているのだろうが、一般的な子どもたちはどうなのだろうか。

 答えは課外活動を自分で選択して、自分の伸ばしたい分野を極める時間に用いているということだった。スポーツのしたい子どもはスポーツ教室の時間、英語やマレー語以外の言語を学びたい子どもは語学の時間、文化的活動でもよければ、ボランティアなどの社会的活動でもよいというのだ。ちなみに私たちをガイドしてくださった方のお子さんは「バドミントンが大好きで、熱中しているよ」とのことだった。なんと自由な国ではないか。

 しかしここで私はこのプログラムの最中に感じたある出来事を思い出した。それは交流をおこなった学校でのことである。この学校に通う生徒はフィリピンからの移民の系統を汲む貧しい家庭の生徒が多く、将来は彼らの両親がそうであるように漁師か作業員になることが多いらしいのだが、その生徒たちが話す流暢な英語ときたら、彼らの前で英語を話すのが億劫になるほどであった。私たちの方がずっとずっと学校という空間の中で、長く机についているのにも関わらず、である。私は非常に恥ずかしい思いで一杯になった。

 このように学校や教育といったテーマ一つの中でも、私自身が「発展途上」にあると認識していたマレーシアで学ぶべきことが見つかったわけだが、最後に日本ではやはり問題になることの多い「いじめ」という現象について考えてみたい。テレビや新聞を賑わしているニュースを見ただけでも他者を大事にできないという現実が今、私たちの生きる学校空間に横たわっている。しかしマレーシアで次のようなこと聞いて目から鱗が落ちる思いがした。それは、

 「マレーシアでは集団で誰かをいじめるようなことはしない。」

 この言葉の後には「やるときは一対一だ」という言葉も添えられていたのだが、それはさておき、どうしてこんなことが言えるのだろうか。答えはマレーシアという国の持つ最大の特徴にあった。イスラム教徒の多いマレー系、仏教を信仰する中国系、ヒンドゥー教のインド系など、顔や服装を見れば、そこが多民族国家であることは一目瞭然である国。いろいろな人種のいる地域であるからこそ、各人の文化と考え方を認め、尊重する考え方が自然と身についているのだろうと思われる。今回のフィールドワークは将来教師を目指している私にとって大きな示唆と宿題を与えてくれたものだった。時間をかけてこの宿題を完成させていきたいと考えている。

「おにぎりから見えた世界」盈進高等学校2年 松井 千典

今年の3月8日。マレーシアでの学習旅行から帰宅した夜、我が家の食卓には沢山の料理が並んだ。旅の疲れからか、それとも冷めやらぬ興奮からか、私には食欲がなかった。しかし、そんな私を一番ほっとさせてくれたのは、母の握ってくれたおにぎりであった。そのおにぎりを食べながら、私はこれまでの旅で見聞した数々の体験を振り返っていた。

初めて訪れたマレーシアでは、言語も文化も宗教も日本のそれとは大きく異なっており、戸惑うことが多かった。特に多民族社会と言う言葉の通り、様々な人種・文化が混在していること、そしてそれらが協調的に成り立っているということ自体が驚くべきことだった。

しかしマレーシアと日本にも共通点はある。それは彼らが「米」を主食にしていることだ。「米」は私たち日本人にとってソウルフードとも言える食材である。そんな「米」を生きる糧としている人々が日本から5000キロ離れたマレーシアにもいるということは私の世界観を大きく変える事実であった。

現地で米を食べてまず感じたのはそのパサパサした食感である。炊きたてが喜ばれる日本の米とは違い、柔らかくて冷めているのだ。米の形状も細長く、微妙な色と香りも感じたため、これはおそらく私たちが普段食べているジャポニカ米ではないということを直感した。現地のガイドさんの話では、かつてマレーシアにも水田は多く見られたが、今は少なくなっており、約70%の米をベトナムや中国から輸入しているということだった。おそらくアジアの熱帯地域で多く栽培されているインディカ米なのではないかと思い当たった。

さらにマレーシアで日本のような米を食べたいと思ったときは、韓国産の米を買うとよいと聞いた。韓国の屋台で売られている「キンパ」が日本の海苔巻きとほぼ同じ味・形状であったことを思い出した私は納得した。そして同じアジアにおける韓国との距離感をさらに近く感じた。

世界における米文化の広がりを考えるとき、思い出したことがあった。一昨年にアメリカのロサンゼルスを訪れた際にスーパーで米を見かける機会があったのだ。アメリカ西海岸で日本のブランド種「コシヒカリ」や「アキタコマチ」が栽培されるようになったという。日本と同じ品種の米を作っても成分や水分量等が大きく関係しているのだろうか、ホームステイ先でもパサパサ感は否めないものがあったが、米を加工して調理するという現地ならではの工夫を体験的に知ることができた。

ところが一方で主食を米とする日本では米離れが問題になっている。食生活の簡便化はコンビニエンスストアやファストフード店の普及を見ても明白である。かつての一家団欒で食卓を囲む光景は核家族化の時代を迎え、孤食時代へと突入していると言えよう。アメリカで「コシヒカリ」を食べた私が、日本でマクドナルドのハンバーガーを食べているという現実は少し、いやかなりちぐはぐだ。だが、これと同じ現象がマレーシアでも起こっているということを耳にした。若者たちを中心として都市部ではハンバーガー店やフライドチキンの店が出店してき始めたというのだ。まさに食の欧米化と言われる現象ではあるが、私は欧米化という言葉よりは「単一化」という言葉の方がふさわしいのではないかと思う。

マレーシアから帰国した3日後、日本は東日本大震災から丸1年を迎えた。津波による水田への浸水が塩害を引き起こし、米どころである東北地方では今後数年に渡り水稲栽培ができないというニュース。福島の原発問題による風評被害で安全な米が食べられなかったり、何ヶ月間もかけて手塩にかけて育てた米が放射能汚染で安全性が確認できていなかったりしているという新聞記事。いずれも私だけでなく日本中の人が心を痛めてこれらの情報を目や耳にしたことであろう。 そのとき私は再び思い出したのである。日本に帰ってきて久しぶりに食べた母のおにぎりのおいしさを、そして安心感を。世界のあちこちで目にした米、耳にした米、そして口にした米。そのどれもが私の本当の居場所を思い出させてくれた。そして同時に身近な日本の中に、今居場所を感じられないで生活している人がいるという現実を思い知らされた。帰る場所があるという喜びをおにぎりが教えてくれたということを私は忘れないようにしたい。

[高校] 第6回高校生論文コンクール 優秀賞受賞

第6回高校生論文コンクール(関西福祉科学大学・関西女子短期大学主催)において、5年(高2)河相芳樹君の作品が「優秀賞」に選ばれました。このコンクールは「優しさ」をテーマにした800字の論文が課せられたもので、全国から寄せられた8226作品の中から最優秀賞に次ぐ作品に選ばれました。

この結果は関西福祉科学大学のホームページに掲載されるとともに、11月10日(土)に同校にて表彰式が予定されています。

「残りの『優しさ』の使い道」盈進高等学校2年 河相 芳樹

 優しさとは何だろうか。私は自分を優しいと感じたことが一度もない気がする。なぜならどう考えても実は自分が多少の損得を考え、その小さな得を期待してしまっていると感じるからだ。もちろんボランティアのように無利益な行動を行っている間は、そんな感情を持つことはない。しかし終えてみれば結局は、自己満足と誰かに認められることを期待しての行動だったに違いないと、自分が偽善的に行ったのだと思わずにはいられないのだ。このように考えると全ての行動がそう思えて仕方なくなる。だが、私にもある一つの関係だけ、この偽善を感じない優しさがある。それは親と子の間にある「優しさ」である。

 親子の場合、親が自分の子と言える存在を大切に守り育てるのは、ほぼ道理と言える。そして子が親から受けた恩を返し切る前に、親が命を全うするというのも、道理と言えよう。この事象が変化することなく繰り返されえるのはなぜだろうか。

 ここには先に述べた恩の返し残りが関係するのではないかと思えてならない。親は子が生まれた時点でゼロから無償の優しさを注ぐ。そして子が成長すれば、今度は恩が返されると考える、まさにギブアンドテイクの関係であってよいはずだ。しかし私の母親の母親、つまり祖母の姿を見ている限り、親というものはその生涯を終えるまで、自らの子に対して恩を与え続ける。親の子に対する優しさに上限はなく、半永久的に恩を作り続けるのだ。だから当然その恩を返し切ることは難しく、そこに恩の返し残りが生まれる結果となる。

 このように考えると、今子である私たちは、子であるが故に親に返しきれない優しさを他者に分配することが求められるのではないだろうか。親から教わる「ひとに優しくしなさい」という言葉には、私たちが「優しさ」の完成形に近付くヒントが含まれているのかもしれない。

2012年11月 1日 (木)

秋恒例のイモパーティー開催

 

 1年で一番おいしい季節がやってきました。今週は連日創作室からいい香りが漂います。

秋恒例の芋パーティの季節です。1年生が春に盈進農園に植えた芋を、先週収穫し、今週

は各クラスでイモ汁を作り、みんなでいただいています。自然の恵みに感謝し、収穫の喜び

を五感を使って感じるひと時です。

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