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2012年11月 2日 (金)

[高校] 第6回高校生論文コンクール 優秀賞受賞

第6回高校生論文コンクール(関西福祉科学大学・関西女子短期大学主催)において、5年(高2)河相芳樹君の作品が「優秀賞」に選ばれました。このコンクールは「優しさ」をテーマにした800字の論文が課せられたもので、全国から寄せられた8226作品の中から最優秀賞に次ぐ作品に選ばれました。

この結果は関西福祉科学大学のホームページに掲載されるとともに、11月10日(土)に同校にて表彰式が予定されています。

「残りの『優しさ』の使い道」盈進高等学校2年 河相 芳樹

 優しさとは何だろうか。私は自分を優しいと感じたことが一度もない気がする。なぜならどう考えても実は自分が多少の損得を考え、その小さな得を期待してしまっていると感じるからだ。もちろんボランティアのように無利益な行動を行っている間は、そんな感情を持つことはない。しかし終えてみれば結局は、自己満足と誰かに認められることを期待しての行動だったに違いないと、自分が偽善的に行ったのだと思わずにはいられないのだ。このように考えると全ての行動がそう思えて仕方なくなる。だが、私にもある一つの関係だけ、この偽善を感じない優しさがある。それは親と子の間にある「優しさ」である。

 親子の場合、親が自分の子と言える存在を大切に守り育てるのは、ほぼ道理と言える。そして子が親から受けた恩を返し切る前に、親が命を全うするというのも、道理と言えよう。この事象が変化することなく繰り返されえるのはなぜだろうか。

 ここには先に述べた恩の返し残りが関係するのではないかと思えてならない。親は子が生まれた時点でゼロから無償の優しさを注ぐ。そして子が成長すれば、今度は恩が返されると考える、まさにギブアンドテイクの関係であってよいはずだ。しかし私の母親の母親、つまり祖母の姿を見ている限り、親というものはその生涯を終えるまで、自らの子に対して恩を与え続ける。親の子に対する優しさに上限はなく、半永久的に恩を作り続けるのだ。だから当然その恩を返し切ることは難しく、そこに恩の返し残りが生まれる結果となる。

 このように考えると、今子である私たちは、子であるが故に親に返しきれない優しさを他者に分配することが求められるのではないだろうか。親から教わる「ひとに優しくしなさい」という言葉には、私たちが「優しさ」の完成形に近付くヒントが含まれているのかもしれない。